ヤッピータレントブック

堀川弘通のプロフィール

掲載リクエスト

堀川弘通の詳細情報

堀川弘通の画像

堀川弘通

読み仮名 ほりかわひろみち
タレントジャンル 映画監督
誕生日 1916年12月28日(年齢107歳)
血液型 -

堀川弘通について

堀川弘通は映画監督である。京都府出身。

成城高等学校(現:成城大学)、東京帝国大学文学部と進み、1940年に卒業。同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加。入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。再び黒澤組に参加し、『わが青春に悔なし』ではチーフ助監督をつとめる。しかし完成後まもなく病気が再発し、今度は3年半の休職を余儀なくされる。1950年に復職、東宝争議で他社を転々としていた黒澤も東宝に復帰し、黒澤復帰第一作『生きる』や『七人の侍』に助監督をつとめる。

1955年に『あすなろ物語』(黒澤明脚本)で監督としてデビューするが、黒澤流の妥協を許さない撮り方で撮影したため、途中でフィルムを全て使いきってしまったという。そのため、会社からの命令で本作撮影後に再び成瀬巳喜男監督の下で助監督に就き、きっちり予算内で収める成瀬の演出術を学んだ。以後、『女殺し油地獄』(1957年)、『裸の大将』(1958年)、『黒い画集・あるサラリーマンの証言』(1960年)、『狙撃』(1968年)、『軍閥』(1970年)など、数々の話題作を監督。

1977年、『アラスカ物語』撮影中に東宝との専属契約を解除し、フリーとなる。その後は、『ムッちゃんの詩』(1985年)、『花物語』(1989年)、『エイジアン・ブルー』(1995年)など主として独立プロから作品を発表する。2001年10月に発表した『評伝 黒澤明』(毎日新聞社刊)で第11回Bunkamuraドゥマゴ文学賞(選考委員小林信彦)を受賞。

2012年9月5日、食道癌のため死去。95歳没。

堀川弘通の関連商品

Twitterではニュース・出演番組に合わせてツイートしています
Twitterhttps://twitter.com/yapy_talent
記事の一部はWikipediaより引用もしくは改変したものを掲載している場合があります。

ページトップへ